他人鏡
孤独な人生を送っている人は何かと他人との争いが絶えない傾向にあります。
逆に満ち足りた人生を送っている人は人間関係が上手くいっている人が多く、
他人や社会に対して感謝の気持ちを忘れません。
この違いを説明します。
一見するとすべての物事は客観的に存在しているように思えますが、
すべての認識は私たちを通じて存在しているさせているに過ぎません。
自己の潜在意識の中にある過去の記憶に従って、無意識のうちに見たいものだけを選択し、都合よく解釈して見ています。
そこに見えている映像は 私たちの影 に過ぎません。
外だと思っている見えている他人は自分の姿です。
たとえば、
自己否定感の強い人は見たくない自分の姿である他人を見たとき激しい拒否反応を示し否定します。
このような人は孤独感を紛らわすため他人との関りの中に居場所を見出して関心を得ようと攻撃的になります。
その典型が政治や宗教など自己の存在に関わる確信(信念、信仰、価値観)がぶつかり合う場面です。
見たくない自分、例えば、右の人はそれと対をなす左の人を、左の人はそれと対をなす右の人を見たくないため攻撃し、一時の満たされ感を得ます。
しかし、そんなことで本来の自分を生きることはできないし、そこに自分の居場所などありません。
分離意識が強まり更に攻撃を強めるという 負の連鎖に陥り
自分がそのように他を見ているので同じ現実を同じ解釈で自分を評価するので苦しみます。
傷つける人は誰もいません。
相手に何かを言われたり、きっとそうだろうと予測して勝手に傷つくのは自分なんです。
簡単な例を1つ。
パン屋さんにお母さんと子供が向かいました。
お母さんは仕事で連絡が入り、メールで対応していました。
その時に、子供がトングと受け皿を取ってきてお母さんに渡しますがお母さんは集中していて無視しているわけではありませんが薄い反応になります。
このとき、子供は褒めてもらいたいから傷つくのです。
お母さんに悪気はありません。
あくまで1つの例ですが、このようなことを誰もが経験します。
この勘違いから自分を自分で不当な評価をしていきます。
その無意識の評価で世の中を見ていきます。
傷つきたくないから、正論を立てたり、常識など都合のいい言葉の善悪で自分を守るのです。
このことから、自分を守るのは当たり前だと思う信念なので、
相手もそうだと無意識に勝手に判断して妄想で苦しんでいるのです。
歳をとると過去に周りから必要とされた時期などと比較して
今に無価値感を感じたりしてしまい
大人だからと葛藤し変な方向に抵抗して
無意識に自分をどんどん低く評価していくのです。
私は大人だから。人生とはそうゆうもんだ。など新たに自己評価をさげるので永遠に世の中をそのような信念で見て苦しみ続けます。
例えば、裏切られた。常識的に最悪な事があっても
自分からしか変えれません。そんな人と切れて当然ではないですか?
必要ですか?
必要なら許せばいいですそれだけです。
「そんなこといってもあのひとは最低だ」
長い間、それを常識として生きてきたわけですからこう思うのもしかたありません。
しかし、苦しみから抜けるには、自分の無知を認めて素直になることが近道かもしれません。