時間
人はよく「時間がない」などと言い、また歳をとり病気がちになると、
「もうそろそろかな~」などと 人生の終末 をイメージし始め、実際に現実を引き寄せます。
しかし、「時間」も意識次第でどうにでもなるのです。
実際、時間の始まりも終わりも誰も確認できません。
過去と未来の境界も定まりません。
概念で「点」と「線」はありえても、実際に描こうとすると幅を持った「面」になってしまい描けません。
「時間」もこれと同じです。概念にすぎないという事。
常識では日付は時計の0:00を区切りにしていますが、
0:00になる直前には23:5999…という小数の無限時間が存在して境を確定できません。
小数点以下の無限の時間を四捨五入して、時間の一部を切り取って繋ぎ合わせているだけで、あたかも直線的な時間が存在するように感じているのです。
また、時間の長さは人により違います。
例えば8歳の子供にとって1年は「とても長く」感じますが、
80歳の人にとっての1年は「あっという間」で短く感じます。
これは分母になっている時間が「8歳」と「80歳」で10倍異なるために起こる現象です。
嫌なことを我慢している1時間は「早く終わってくれないかな~」と長く感じますが、喜びや幸福感に満たされている1時間は あっという間 に過ぎてしまう経験はありませんか?
入学したり転職したりした直後は、通学通勤路の景色がワクワクして見えますが、
その嬉しさ 楽しさもやがて冷め今度は逆に味気なさそして苦痛に変わり通学通勤の時間がうっとうしく感じたり。
一般に時間は、「過去から現在(思い出す)」、「現在から未来(夢見る)」、「過去から未来(予測する)」の三パターンだと考えられています。
しかし、これとは逆に「現在から過去」、「未来から現在」、「未来から過去」にも成り立ちます。
どうゆう事かというと、
表現が悪い例えになりますが、
ある人が親から虐待を受けていて親を心底恨んでいたとします。
過去に遡って自分を生む前の親を殺したら、自分は生まれてきません。
しかし、自分が生まれなければ親は殺されません。
そうなると自分は生まれ、
自分は過去に遡って親を殺します。
この一連の流れは、どちらかに意識を向けるまで「親を殺す→生まれない→親は殺されない→生まれる→……」と永遠に続くようになります。
どちらかに意識の観測が行われるまで2つの状態が同時に存在している事になるのです。
続いて
朝日は、太陽から8分遅れて地球に届いています。
光は一瞬で無限の距離を進んでいるように感じますが、実際には1秒間におよそ30万km(地球7周半の距離)しか進むことができません。
今、8分前の光を見ていることになると時間は「現在から過去」に遡っています。
他にも変わった時間の感覚が金星です。
金星は太陽の周りを1周する時間より、自転するほうが時間がかかるため、
1日の長さが1年より長い逆転が起きています。
常識では、「過ぎ去った過去は変えようがない」と言われますが、
アドラーは、未来に目標を設定し過去の 解釈 を変えると、今にもたらす影響も変わり、時間は「未来から過去」に流れていると言っています。
このようなことを考えていくと、
時間は「主観的・相対的」で、「客観的・絶対的」な時間など存在しない事がわかりました。
時間も空間(物質や状況)と同じで曖昧な概念だということです。
忙しくて時間がない という人がいますが、
時間がないというのは、それぞれの個人的な解釈や印象であって、
大抵は無意識の抵抗で「しないこと」の言い訳か、どうでもいいことにエネルギーを浪費している状態が多いと言えます。
では、なぜ人は時間という概念を用いるのでしょうか。
わたしたちが2元性で生きていることを考えると
時間による制限を自分に設けることで「プレッシャー」というネガティブな感覚を通して「成長」というポジティブな学びを得るためかもしれません。
しかしこれらはもう覆されました。
ある といえるのは「今ここの瞬間」だけです。
「明日」も「昨日」も、「明日」か「昨日」の時点に立って見たら「今ここ」しかありません。
時間の流れは曖昧なもので「今」が永遠に続いているだけです。
だとしたら人生は「始まり(誕生)」も「終わり(死)」もないといえます。