考える
イエス・キリストが「愛」を教義にしたわけではなく、弟子のパウロによって
「愛の福音宗教」とされて以来 キリスト教やその影響を受けた欧米思想で使われるようになったようです。
それ以降「愛」は絶対的な「神」の意味で使われ、「神の恩寵としての無償の愛」だったり、
逆に「神への無償奉仕」の意味で使われ始め、
「いつも神に見守られているんだから、無償で奉仕しろ」というのが、
ローマカトリックが信徒を引き付けておく決まり文句になりました。
実際、異端として切り捨てられた「ピリポの福音書」や「トマスの福音書」
「マグダラのマリアの福音書」、「死海文書」、「ナグハマディ写本」には
イエス自身がそんなことを言った記録は一切書かれておらず、
プラトンのイデア論などグノーシスを重視するヘルメス主義に貫かれていたようです。
新約聖書は、約1500年の間に十三人の人物によって40回にわたって、
時の権力者に都合良く書き換えられたと言われています。
私たちは長い間、感覚的にとっつきやすい善悪二元論に慣れ親しんできました。
その結果、
「自分たちの考え方こそが正しい」独善と、
「ヒューマニズム」という名の再現のない自我の追求で、
戦争や環境破壊などの問題を引き起こしました。
そろそろ欧米流の単純な善悪二元論を卒業すべきときではないでしょうか?
問題は「二元論的思考」からどうやって抜け出すかです。
ユダヤ・キリスト教では思考することを捨て、「神を信じる」ことで乗り越えよと説いています。
また、イスラム教や一部の大乗仏教でも同様な「他力本願」の教えを説いています。
一方、上座部仏教は「自力」による解脱を目指しています。
自力によって悟りを開き、あらゆる苦悩から解放される人は極めて稀で、本物の知的エリートに限られるようにも思われます。
この点、大乗仏教はこの世は意識が作り上げた空なるもの、
あるいは関係性の中にだけ成り立つ空なるものという哲理を通して悟りに導いて
あるようでない、ないようである現実に直面してもジャッジせず、執着せず、
あるがままに任せよ、と説いています。
「あるがまま」の成り行きを誰に任せるのか
「神、仏」や「開祖、教祖」に任せるか、
「御先祖」や「自然」に任せるか。
前者が 信仰 といわれる一神教とこれに近くなった一部仏教(阿弥陀如来)
後者が 哲理 といわれる多神教と古来からの仏教。
信仰 と哲理の違いは、
「形をイメージしやすい」方が馴染みやすいか、
「知に訴える」方が腑に落ちるかの好みの問題だと思います。
僕は後者で自然の摂理から理解しています。